円盤に乗る派『おはようクラブ』作品評(山崎健太)
「カンゲキのススメ」では、主に吉祥寺シアターで上演される作品に関連して、インタビュー、劇評、レポートなどさまざまなコンテンツを掲載いたします。これからシアターでどんな作品が上演されるのか?どんなアーティストが関わっているのか?作品の魅力を少しでもお伝えできれば幸いです。
今回取り上げるのは、1月13日(月曜・祝日)に千秋楽を迎えた円盤に乗る派『おはようクラブ』。
ワーク・イン・プログレス評に続き、演劇批評家の山崎健太さんに本公演の劇評をいただきました。(円盤に乗る派より出稿)上演写真と合わせてご覧ください。
『おはようクラブ』の感想をTwitterで検索していて「ヴェイパーウェイヴ」という言葉を目にした。音楽に疎い私はそれがある音楽の傾向、あるいはジャンルを指す言葉だということくらいしか知らず、改めて調べてみると2010年頃から登場してきたものらしい。Wikipediaにはこうある。
過去に大量生産されて忘れ去られた人工物や技術への郷愁、消費資本主義や大衆文化、1980年代のヤッピー文化、ニューエイジへの批評や風刺として特徴づけられる。基本的にパソコンとDAWを用いて、素材の加工と切り貼りだけで制作される。(Wikipediaより)
なるほど、近過去への郷愁の感覚にはたしかに『おはようクラブ』に通じるものがある。だがそれはsons wo:時代からのカゲヤマ気象台作品に通底するもので、さらに言えば世代と時代の必然でもあるだろう。
カゲヤマは1988年生まれ。1983年生まれでカゲヤマの5歳年上にあたる私の話をすれば、私が大学生の頃まではまだ「古いコンテンツ」と「新しいコンテンツ」がグラデーションの中に、しかし明確に配置され存在していたような気がする。SMAP『世界に一つだけの花』が312万枚売れた時代。2020年現在、遠近法は完全に無効になったわけではないが、しかし近過去のコンテンツへのアクセスは、それがデジタル化可能なものであるかぎりにおいて格段に容易になった。
時間感覚の失調した世界ではノスタルジーの感覚もまた失われ、あるいは変容せざるを得ない。ヴェイパーウェイヴが主な素材とするのはインターネットが急速な発達を遂げる直前の時代のモノたちであり、それはつまり私の知る「ノスタルジー」が成立する最後の時代なのだということなのかもしれない。ならばそこにあるのは「ノスタルジーへのノスタルジー」、「パッケージ化されたノスタルジー」だ(ところで、ヴェイパーウェイヴは漢字で新蒸気波と書くらしいのだが、私はいつもそこから「スチームパンク」という言葉を連想する。スチームパンクは80年代から90年代初め頃に隆盛したSFのサブジャンルの一つで、蒸気機関が基幹テクノロジーとして用いられる世界を描く。スチームパンクとヴェイパーウェイヴはレトロフューチャーな手触りにおいて共通しているが、私の印象ではスチームパンクが蒸気機関を改めて「生かして」いるのに対し、ヴェイパーウェイヴは扱う素材をすでに「死んだ」ものとして扱っている)。
sons wo:名義で発表された『シティ』三部作の舞台には、ゲームボーイなどのガジェットがノスタルジーの装置として登場する。だが舞台となるのはどうやら文明の崩壊した遠未来で(『シティⅢ』の戯曲には56億7千万年後と記されている)、そこでは私たちにとっての現在も近未来も全てが遠い過去のこととなっている。ノスタルジーを感じるのは観客であって劇中の人々ではない。なかった。
「ここで流れる音楽は誰にとっても懐かしくないが過去から聞こえてくる」。これはsons wo:名義での最後の作品『流刑地エウロパ』の戯曲に記された言葉だ。登場人物たちは2005年(1993年の10年後からさらに2年後)の地球らしき場所に生きているのだが、物語の結末に至って、そこが1993年に「地球をインストールされた」エウロパだったという事実が明らかになる。捏造された過去。並行世界。あり得た未来。
「目の覚める回数に限界はないのだ」。「2018年の2月(上演の日付)まで到達して戻ってきた」というケニー・Gの日記に記された言葉は、『おはようクラブ』冒頭のA(畠山峻)の言葉とも響き合う。「僕は毎朝生まれ直していて、生まれ直すたびに少しずつ違う世界に来ているんだと言えば、それは実感に合ってる。気がつけば、遠くまで来たものだ。マイケルだって死んだしな。元の世界に帰りたい、そんなことをふと口にして、一体何になるのかわからないけど」。
もし『おはようクラブ』がこれまでのカゲヤマ作品よりもヴェイパーウェイヴ的だと感じられたなら(と仮定形で語らざるを得ないのは、第一に私が観劇の時点でヴェイパーウェイヴのなんたるかを知らなかったからであり、第二に私がどうやらカゲヤマと音楽や映画などの趣味をほとんど共有していないからである。私が『おはようクラブ』からノスタルジーらしきものを感じとるとき、そのほとんどは私の実体験でなく登場人物の感覚を通してもたらされる。私が本物のノスタルジーを感じたのは唯一、C(上蓑佳代)が『ばらの花』を歌う場面だ。私は大学生の頃、くるりのコピーバンドをやっていた)、それは登場人物たちの現在が観客のそれと地続きのように感じられるからではないだろうか。私はマイケル・ジャクソンを聴かないが、それでもマイケルの名前に感じるなにかしらはあり、たとえなかったとして、他人のそれに感応することはできる。
僕はこの世界に対して、昔は感じていたはずの、多くの期待や希望について、なつかしさというよりむしろ違和感のようなものを覚える。どこからが捏造で、どこからがまた捏造の捏造なのか、まあ捏造というのも、決して悪意のあるものではないのだけれど。
『おはようクラブ』はABCDの4人が仲間になり、旅に出て、ある島に辿り着く(そして戻ってくる?)までの物語だ。そこは東京湾から「2時間ちょっと」、「Google Mapには載ってない」島で「とある遺言によって」「某省庁が主体となって」作られた。ペパーミントの風が吹くスポーツに最適な気候。ナムジュンパイクの映像。ブライアン・イーノと坂本龍一にデヴィッド・ボウイも少し噛んでいたと言われるBGM。カローラⅡに乗って出かけるショッピングモールと糸井重里による交通標識。サントリーのペンギンやソニーの犬があちこちにいてハイライトの吸い殻が落ちているその場所が完成したのは平成2年で今は人間は住んでいないらしいが、そう語るB(横田僚平)はそこが「楽園」だと聞いているという。
島が完成した平成2年は『おはようクラブ』が上演された令和2年からすればちょうど元号ひとつ分、時代ひとつ分むかしのことで、「人類が火を発見するより古いんじゃない?」と揶揄される一方、島を彩る固有名詞は過去と呼ぶには微妙に新しい。かつて「楽園」と呼ばれ、彼らが目指すその場所は、果たして今も「楽園」だろうか。彼らが島に辿り着いたとき、舞台奥のシャッターが開き、黄金に輝く島のような形状のオブジェが現れる。Wilco"I Am Trying To Break Your Heart"(という2002年のその曲のタイトルを私は戯曲のト書きで初めて知りApple Musicで聴いたのだが)に合わせてオブジェの周囲で踊る彼らの姿は多幸感にあふれているが、それは墳墓のようにも見えるのだった。
島に関する断片的な情報はD(日和下駄)からももたらされる。かつてその島で映像作品を作ったアーティストが、それ以前に撮った日本が沈没する「昔ながらの、SFっぽい」作品が原因でネット上で炎上するという事件があったのだという。そして最後から二番目の台詞でAは自分こそがそのメディアアーティストなのだと告白する。
物語は誰に力点が置かれているわけでもないのだが、旅の中心人物は一応のところAのようだ。仲間になるよう呼びかけ(歌いかけ?)るのはAであり、ト書きにも「仲間になる」ではなく「仲間にする」とある。辿り着いた島でそこが彼にとって因縁の場所であったことを告白するのも主人公めいているし、その結末は冒頭に置かれた彼自身の「あらゆるものが見たことのある光景に還元されてしまい、永久機関が完成する」という言葉とも響き合う。その島の正式名称は「いつか消えてしまっても、いいんだよ、ここは今だけはずっと永遠なんですアイランド」というらしい。
だが、Aの告白が終わると舞台は徐々に暗くなり、周囲で踊り続けるA、B、Dとともに輝く島はシャッターの向こうに消えていく。物語はともに踊りながら、しかしひとり残されたCが「旅に出ていた、あのとき」のことを思い出しながら「愛車のプリウスで」仕事に出かけようとするところで終わる。「カローラⅡ」をはじめ、島にあったとされるものたちがみな「過去」を引きずっていたのに対し、「プリウス」という固有名詞は明らかに2020年の現在を思わせる。過去の島に唯一言及しなかった、そして唯一の女性(が演じる役)であるCだけが現在に帰還し「日常」を再開する。
ところで、戻ってきた「日常」の領域、シャッターのこちら側には最初から大きな穴が空いていた。舞台面のほぼ中央に空いたテトリスのT字ブロックのような形状をした穴。壁面には花柄に見えるファンシーな壁紙が貼られていて、そこにテレビの光のようなものがチラチラと反射しているのも見える。劇場の高い天井からは穴ギリギリの高さにランプシェードが吊るされている。穴の底には生活空間があるようだが観客には見えず、登場人物もBが一瞬そこに降りていくものの、基本的にそこに立ち入ることはない。
シャッターの奥の「島」と穴の中の「家」。舞台美術(渡邊織音)らしい舞台美術はこの2つだけだ。黒一色の劇場で色彩を帯びているのが衣装とそれらしかないこともあって「島」と「家」は対になっている印象も受ける。戻れない過去と帰ることのできる家。凸の島と凹の家はネガポジの関係で、日本人の私にとってはどちらもホームだ。登場人物たちは、劇中で流れる時間の多くをそのどちらでもない空間で過ごす。舞台の外から、扉を開け、奇妙な効果音とともに彼らはそのどちらでもない空間に現れたのだった。
『おはようクラブ』では4人が仲間になる理由は一切示されない。冒頭に置かれた4人それぞれの独白のあと、Aは踊りながら"Magical Mystery Tour"を歌い、その度に(それだけで)BCDはひとりずつ仲間になっていく。そこには理由も目的もない。あるのかも知れないが少なくとも描かれていない。目的地がある島だということは旅に出てから明かされ、しかもそれは4人に共有されていたわけでもないらしい。挙げ句に"Magical Mystery Tour"ですらも忘れ去られる。バラバラな彼らは島に向かう船上で「真実を拡張する」ABCDというクスリを飲む。「人類が滅びかけてるのも、幸せな気持ちでベッドから目覚めるのも、どっちも真実なんだ」。無数の真実。「ひとそれぞれ好みはあるけど/どれもみんなきれいだね」?クスリを飲んだ者はその場に倒れ伏していき、そしてまた起き上がり旅を続ける。本当に旅は続いたのか。彼らが倒れることは戯曲には書かれておらず、それすらもまた無数の真実の中のひとつでしかない。無数の真実がどれも同等に「真実」であるならば生きていようが死んでいようが同じことだ。だが、それでも私はあの旅を思い出す。そうすることはできる。
山崎健太(やまざき けんた)演劇研究者・批評家/演劇批評誌『紙背』編集長
円盤に乗る派かっこいいバージョン『おはようクラブ』1月11日(土曜)~1月13日(月曜・祝日)